大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 平成5年(う)848号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

当審における未決勾留日数中七〇〇日を原判決の刑に算入する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人佐藤博史、同神山啓史、同岡慎一、同上本忠雄が連名で提出した控訴趣意書及び弁護人佐藤博史提出の控訴趣意書訂正申立書に、これに対する答弁は検察官淡路竹男提出の答弁書に、それぞれ記載されているとおりであるからこれらを引用する。

第一  DNA型鑑定に関する論旨について

一  理由齟齬の主張について

所論は、要するに、原判決が、本件DNA型鑑定が依拠している警察庁科学警察研究所(以下、科警研という。)の合成酵素連鎖反応(PCR)を応用する(以下、PCR法という。)MCT118部位のDNA型判定の方法(以下、単にMCT118法ともいう。)は、信頼性の点で未だ一般的に承認されているとは言えないことを認めながら、その証拠能力を肯定しているのは、理由齟齬の違法があるというのである。

しかしながら、原判決は、MCT118法によるDNAの型鑑定はその信頼性が社会一般に完全に承認されているとまではいえないが、科学的根拠に基づいており、専門的な知識と技術及び経験を持った者により、適切な方法によって行われる場合には信頼性があり証拠能力を持つとの前提に立ち、本件DNA型鑑定の証拠能力が肯定される所以を説示しているのであり、理由に齟齬があるとは認められない。論旨は理由がない。

二  訴訟手続の法令違反、事実誤認の主張について

所論は、要するに、原判決は、証拠能力を欠くDNA型鑑定に大きく依拠しているから、判決に影響を及ぼす訴訟手続の法令違反があり、その証拠評価を誤り、事実誤認を犯した、というのである。

そこで、所論にかんがみ順次検討を加える。

1  本件DNA型判定の鑑定結果の証拠許容性

(1) 所論とその検討

a DNA型鑑定の原理とその手法の妥当性

所論は、科学的方法を用いた鑑定が刑事裁判で証拠能力を認められるためには、その基礎原理が、専門分野で一般的に承認を受けたものであり、かつ、その手法ないし技法が妥当であることが必要であるが、DNA型鑑定そのものが個人識別に有効であることには科学的根拠があり、その専門分野において一般に承認されているといえるけれども、鑑定資料が微量しか得られない場合、あるいは汚染され、混合している場合など、収集された鑑定資料に量的、質的な問題を伴う犯罪捜査において、本件のように科警研のPCR法によりヒトの第一染色体MCT118部位を増幅して行われたDNA型鑑定(すなわちMCT118法を用いたDNA型鑑定)については、未だ専門分野において一般的承認を得ているということはできず、信頼性に問題がある、というのである。

検討するに、一定の事象・作用につき、通常の五感の認識を超える手段、方法を用いて認知・分析した判断結果が、刑事裁判で証拠として許容されるためには、その認知・分析の基礎原理に科学的証拠があり、かつ、その手段、方法が妥当で、定型的に信頼性のあるものでなければならない。

関係証拠によれば、以下の事実が認められる(〈証拠・略〉)。

DNA型判定は、細胞核中の染色体内にある遺伝子の本体であり、二つの紐を組み合わせたような、螺旋構造を持つDNA(デオキシリボ核酸)の、それぞれの紐に相当する部分に様々な順序で並んで結合している四種の塩基の配列に、個体による多型性があることを応用した個人識別の方法である。

本件DNA型鑑定で用いられたMCT118法は、ヒトの第一染色体のMCT118部位に位置する、特定の塩基配列(反覆単位となる塩基対は一六個)の反復回数の多型性(反覆回数が人により様々に異なること)に注目し、この部分(ミニサテライト、VNTRとも呼ぶ。)をPCR法で増幅し、その増幅生成物につき、右の塩基配列の反復回数を分析するものである。この方式では、まず、検査資料の細胞から蛋白質等を除去してDNAを抽出し、次に、これを加熱してDNAの二本の鎖を解離させ、特定の塩基配列を持った二種類の試薬(プライマー)をMCT118部位に結合させて同部位を探し出したうえで、PCR法によりその部位を複製して増幅する。そして、反応混合物から分離した増幅生成物をゲル上で電気泳動にかける。このとき、既知塩基数のDNA断片混合物をDNA型判定用の指標(サイズマーカー)として隣接レーンに加えておく(本件鑑定では123塩基ラダー・マーカーを用いた。以下、123マーカーという。)。そうすると、短い(反復回数の少ない)DNAほどゲルの網目をすり抜けて早く動き、長い(反復回数の多い)ものほど遅くなる。このようにして、反復回数の多いものから少ないものへ、順に縦に一列に並び、帯状のバンドパターンが生ずる。これを画像解析装置で分析し、マーカーとの対比で増幅生成物の結合塩基数を求め、ミニサテライト部分の特定塩基配列の反覆回数を算出する。MCT118部位のミニサテライトでの反復回数は、本件鑑定当時、123マーカーを用いて一三回から三七回までの二五通りが経験的に知られており(当審弁九三号証によれば、その後、一二回、三八回の反覆回数を持つものもあることが判明している。)、染色体は父母それぞれに由来するから、一個人につき二つのDNA型が読み取られ、例えば、反覆回数一六回と二六回の遺伝子対を持つ個人のDNA型は、一六-二六型と表示する。その二個の対立する遺伝子型の組み合わせでは、各二五通りずつとすると三二五通りに、各二七通りずつとすると三七八通りに、理論上分類できることになる。

このMCT118法は、科警研のスタッフによって開発された方法で、DNA資料が微量の場合でも(新鮮な血液から精製する場合、型判定に必要なDNAは約二ナノグラム程度で足りる。)、PCR増幅により比較的短時間で型の検出ができること、増幅するミニサテライトのDNA分子量が小さいため正確に増幅でき、異型率が高く、したがって異同識別能力が高いこと、DNA型分析結果の再現性が高いことなどの特長のために、犯罪捜査に有用な方法であるとされている。

また、原審及び当審証人向山明孝、当審証人坂井活子の各供述によれば、現在では、本件で用いられたMCT118法による型判定の検査試薬キットが市販されていて、大学などの専門機関が右キットを購入し、分子生物学、遺伝生化学などを修学した者がマニュアルにしたがって作業をすれば、同方式による型検出ができる段階にまでなっているというのであり、右各供述に当審で取調べた関係書証を併せみると、右MCT118法によるDNA型鑑定は、一定の信頼性があるとして、専門家に受容された手法であることが認められる。

そして、本件DNA型鑑定を担当した右向山は、平成四年三月末まで科警研の法医第二研究室長を務め、法医血清学の専門家として研究、鑑定等の業務に携わり、DNA型判定の研究をしてきた者であり、同じく向山を補佐して共に右鑑定を担当した坂井活子は、主任研究官として、昭和六一年からDNA型判定の研究を続けてきた者であって、両名とも、多数のDNA型判定を経験し、また、同判定に関する論文も著すなど、DNA型判定に必要な専門的知識、技術と豊富な経験を持っていることが認められ、本件の鑑定作業に特段の遺漏があった事跡は窺われない。

b DNA型鑑定の作業の在り方

所論は、次のように主張する。

犯罪捜査の一環としてのPCR法によるDNA型の異同識別の鑑定は、時間経過に伴う資料の変性・劣化を避けるとともに、DNA資料の混同の危険を防止し、鑑定作業に当たる者の意図的工作の疑いを回避して、鑑定結果の信頼性を確保するために、まず、現場資料について、できるだけ速やかに、DNA型鑑定を行ってその結果を出しておき、この鑑定結果と、後に被疑者等から採取した資料について行われるDNA型鑑定の結果とを比較対照することによって行なわれることが、必須であるのに、本件では、現場で押収された被害者の半袖下着に精液斑が付着していることが判明した時点では、直ちに遺留精液のDNA型鑑定をすることなく、精液斑の付いた右半袖下着を常温で保管しておき、本件被告人が被疑者として絞り込まれ、そのDNA型鑑定資料(精液の付着したティッシュペーパー)が得られた段階で、はじめて両資料についてDNA型判定と、その異同識別の鑑定を行なっている。このような鑑定方法は禁忌すべきである。剰え、本件では、右DNA型鑑定の作業の際に、現場資料として用いた精液斑二個については、第三者による追試がほとんど不可能な状況にあり、これは鑑定の正確性についての事後検証の機会を予め奪ったものであって、許し難い。要するに、向山、坂井両名が実施した本件DNA型鑑定は、非科学的で信頼性に乏しく、証拠能力が否定されなくてはならない。

検討するに、本件において、事件発生の翌日に発見された被害者の半袖下着に精液が付着していることが、間もなく(約一か月以内)捜査官に判明したが、右精液斑についてDNA型判定は試みられず、その約一年後に被告人のDNA型判定の資料(被告人のものと思われる精液が付着したティッシュペーパー)が得られて更にしばらく経って、初めて、科警研において、両者のDNA型の異同比較の判定が行われたこと、被害者の半袖下着に付着していた精液斑のDNA型については、科警研の判定作業のために精液斑七個のうち二個から採取したDNA資料のすべてが費消されたことなどのために、右と同一の精液斑について追試はほとんど不可能な状況にあることは、関係証拠に徴し、所論の指摘するとおりであると認められる。

当審証人向山、同福島康敏の各供述、原審検甲六五号証ないし七二号証等によれば、被害者の半袖下着に付着していた精液斑につき、科警研にDNA型の鑑定が嘱託されたのは、事件発生から一年数か月経てからであるが、それまで右下着は乾燥させたうえでビニール袋に入れて、常温で保管されていたのであり(ちなみに、警察庁が科警研と協議の上、都道府県警察の科学捜査研究所が行うPCR法によるDNA型鑑定について、運用の統一を図り、信頼性を確保するため、平成四年四月に刑事局長通達として各都道府県警察本部長宛に発したガイドライン、「DNA型鑑定の運用に関する指針」(以下、指針という。)には、DNA型鑑定資料の保存にあたっては、凍結破損しない容器に個別に収納し、超低温槽(マイナス八〇度C)で冷凍保存するなど、資料の変質防止等に努めるべきことが謳われている。当審検甲三号証(同弁一五号証に同じ)、同弁一二号証)、その間、時の経過によりDNA型判定に必要な精液斑中の精子のDNAのある程度の量が変性、破壊したであろうことは、察するに難くない。しかし、当審証人向山の供述によれば、精子のDNAは強固な蛋白質プロタミンにより保護されており、血液の場合に比べて、DNAの変性の点では、精子のDNAはかなり安定しているのであって、本件被害者の下着が、相当期間、乾燥した状態で常温下におかれ、超低温下で保管していなかったからといって、本件DNA型鑑定の信頼性を損なうような事態とはいえないというのであり、また、DNAが変性してしまうと、分断されて低分子化してしまい、MCT118部位の塩基配列が型判別に必要な量だけ増幅できず、型判定ができない結果になるはずであるが、本件の場合、PCR増幅を行ったうえ、所定の過程を履践して、確実にDNAの型判定ができたこと自体、精液斑の精子のかなりのDNAが変性しないで残存していたことを意味するというのである。そして、DNA型判定は、当初から対照資料の異同識別に用いることを目的としており、血液型判定などに比して、相当に複雑な作業過程を経るものであるから、すべての対照資料に対し、同一の環境、条件の下で型判定の作業を行うことが信頼性を確保するうえでも好ましい旨の同証人の供述は、所論の論難にもかかわらず、首肯できる(前掲指針が、DNA型鑑定は、原則として、現場資料と対照するための資料がある場合に実施すべきことを謳っているのも、このような趣旨と解される。)。

また、所論は、被害者の半袖下着の精液斑についてDNA型判定の追試ができない事態にあることを指摘して、本件DNA型鑑定の信頼性は疑わしく、延いては、その証拠能力を否定すべきであるというのであるが、原審及び当審証人向山の供述、同人及び坂井活子作成の平成三年一一月二五日付鑑定書(原審検甲七二号証)によれば、被告人の精液が付着しているティッシュペーパーからは比較的変性の少ない相当量のDNAを抽出・精製できたため、MCT118法による型判定とHLA DQα型判定の二つのDNA型の判定作業を行ったが、右下着の精液斑二個から採取した資料からは極く少量のDNAが抽出・精製されたに止どまり、MCT118法による型判定の作業で全量を消費してしまったため、HLA DQα型判定の作業は行うことができなかったというのであって、そこには、追試を殊更に困難にしようとする作為は窺われない。一般に、鑑定の対象資料が十分あれば、鑑定作業を行った後、追試等に備えて、変性を予防しつつ残余資料を保存しておくのが望ましいことは言うまでもないが、犯罪捜査の現場からは、質、量とも、限られた資料しか得られないことの方がむしろ多いのであるから、追試を阻むために作為したなどの特段の事情が認められない本件において、鑑定に用いたと同一の現場資料について追試することができないからといって、証拠能力を否定することは相当ではない。

c 被告人が投棄したごみ袋収集の違法性

所論は、本件DNA型鑑定は、現場資料との異同比較の資料として、被告人が投棄したごみ袋の中のティッシュペーパーに付着していた精液を用いて行なわれたが、捜査官がこのようなごみ袋を収集して内容物を犯罪捜査に用いることは、ごみとして焼却処分されるものと了解して投棄した被告人の意思に反する事態であり、捜査官の任意捜査活動として許される範囲を逸脱し、個人のプライバシーを著しく侵害するものとして違法であるといわなければならず、また、本件の捜査では、被告人以外にも、投棄したごみ袋を捜査官に開披され内容物を見分されてしまった者が少なからずあったであろうから、このような、広範囲の、著しいプライバシー侵害を伴う捜査方法を将来にわたって抑止するためにも、本件ティッシュペーパーを証拠資料に用いることは禁止しなくてはならず、これと一体をなす本件DNA型鑑定の結果も、違法収集証拠そのものとして、証拠能力が否定されなくてはならない、と主張する。

検討するに、関係証拠によれば、平成二年一一月初めころ、本件の被疑者として被告人が捜査の対象に浮かび、同年一二月初めから捜査員がほとんど連日にわたりその行動を密かに観察していたが、本件ティッシュペーパー五枚は、翌平成三年六月二三日、捜査員が福居町の被告人の借家付近で張り込み中に、被告人がビニール袋を右借家に程近いごみ集積所に投棄したのを認め、午前一〇時一〇分ころこれを拾得して警察署へ持ち帰り、内容物を見分して発見したものであって、警察官が特定の重要犯罪の捜査という明確な目的をもって、被告人が任意にごみ集積所に投棄したごみ袋を、裁判官の発する令状なしで押収し、捜査の資料に供した行為には、何ら違法の廉はないというべきである。

(2) まとめ

このように検討してくると、DNA型判定の手法として、MCT118法は、科学理論的、経験的な根拠を持っており、より優れたものが今後開発される余地はあるにしても、その手段、方法は、確立された、一定の信頼性のある、妥当なものと認められるのであり、したがって、DNA資料の型判定につきMCT118法に依拠し、専門的知識と経験のある、練達の技官によって行われた本件DNA型鑑定の結果を本件の証拠に用いることは、許されるというべきである。

本件DNA型鑑定に証拠能力を認めた原判断に誤りはなく、論旨は理由がない。

2  本件DNA型鑑定の証拠価値

(1) 所論とその検討

所論は、本件DNA型鑑定の結果を、被告人と本件犯行の結び付きの証拠に用いることについて、証拠価値の問題点を指摘するので、その主な点について判断を示しておく。

a 123マーカーのDNA型判定指標としての適格性

所論は、本件DNA型鑑定で用いられた123マーカーには致命的な欠陥があり、本件で得られた一六-二六という型判定は、MCT118部位の塩基配列の実際の繰り返し回数を示したものではないから、正しいDNA型判定とはいえず、正しい型判定をするには、アレリック・マーカーを用いなければならないが、本件半袖下着を用いての再鑑定はもはや事実上不可能なので、結局、このような鑑定の結果は信用できない、というのである。

しかしながら、当審証人向山明孝、同坂井活子の各供述に、当審弁九四号証を併せみると、平成三年八月から一二月にかけて二回のDNA型鑑定(原審検甲七二号証、七八号証)が行われた当時は、MCT118法でDNA型判定をする際の指標として利用できるものは、123マーカーしかなく、これを使っていたが、その後アレリック・マーカーが開発され、同マーカーは、MCT118法で塩基配列の反覆回数を直接に読み取ることのできる指標であり、反覆回数と型番号が一致し、型分類も細分化されるので、型判定にはより適していることから、現在では指標としてアレリック・マーカーを使うようになったこと、しかし、ポリアクリルアミドゲルを泳動担体に使って電気泳動をかけ、指標として123マーカーを用いる型判定(本件型鑑定でもこの方法が採用された。)は再現性がよく、安定した検査結果が得られる方法であること、123マーカーとアレリック・マーカーとは、ポリアクリルアミドゲル上での移動に規則的な対応が認められるので、従前から行われていた123マーカーを用いたMCT118法のDNA型の型番号とアレリック・マーカーによる型番号の相互対応は可能であること、がそれぞれ認められる。したがって、123マーカーを用いたMCT118法で得られる型番号は、そのままMCT118部位の塩基配列の反復回数そのものを表しているとは、必ずしも言えない場合もあるが、異同識別のため対照すべき複数のDNA資料について、123マーカーを用いた型判定作業が同一条件下で行われる限り、異同識別に十分有効な方法であることに変わりはないと認められる。

してみれば、所論指摘のマーカーの優劣の点は、本件DNA型鑑定の判定結果の信用性を否定ないし減殺するものではないというべきである。

b 被害者の半袖下着の発見状況と鑑定に必要なDNAの質量

所論は、被害者の半袖下着は、渡良瀬川の水中に没し、かつ、泥だらけの状態で発見されたため、付着した精液はそのほとんど全てが離脱してしまった状態であったはずであり、本件鑑定資料は量的にDNA型鑑定に必要な精子数に足りなかった可能性があり、したがって、本件DNA型鑑定の結果の証明力には疑問があるというのである。

検討するに、本件半袖下着について、精液付着の有無を鑑定した当審及び原審証人福島康敏の供述によれば、精液の物体検査は、予備検査としてSM試薬を対象物に軽く噴霧し、陽性反応のあった部分の斑痕について顕微鏡検査を行うが、これには、斑痕の一部を切り取り、これに生理食塩水を加えて浸出液を作り、さらにその一部を取り出して顕微鏡で検査する、したがって、顕微鏡下で観察される精子の量は、その精液斑の一部に付着している精子の数パーセントにすぎないから、顕微鏡で観察された精子数が微量であっても、斑痕全体に付着している精子は、その何百倍も多いと言える、精子は、女性器内では運動性を発揮するが、空気中や水中に出るとすぐ死んでしまうので、本件半袖下着に付着した精子も、水中において自ずから離脱はしない、また、本件半袖下着は木綿であり、化繊などと比べて精液が線維の奥深くまで入り込むので、流水中でも非常に離脱しにくい状態にあったと考えられるというのであり、当審証人向山の供述によれば、流水中では、下着からある程度の精液が自然に流出することは当然考えられるが、精液は粘性が高く、また、本件半袖下着は木綿製で短繊維の細かなものであるから、これに粘性の高い精液が付着した場合、意識的に洗うなどして、強力な作用を加えない限り、比較的短時間、水中にあった程度ではかなりの量が繊維内に残存すると考えられる、一般的に全く正常なDNAの場合、二ナノグラムあればMCT118法でDNA型の判定は可能であるところ、本件鑑定ではDNA型が確実に判定されたことなどを考慮すると、少なくとも三〇ナノグラム程度のDNAは残存していたと思われるというのである。

そうすると、本件半袖下着には、相当量の精子が付着していたものと認められ、鑑定に当たった者が、右下着から本件DNA型鑑定に必要な精子量を採取できたことに疑問の余地はない。

c 精液斑の付着した半袖下着の保存状態

所論は、微生物等によるDNAの分解や汚染を考慮に入れると、精液斑の付着した本件半袖下着が常温で保管されていたことは、保存方法に問題があり、しかも、本件DNA型判定は、精液が下着に付着してから一年数か月も経過して行われたものであるから、鑑定結果には疑問がある、というのである。

そこで検討する。前記福島証言によれば、本件半袖下着には、精液検査や血液型検査に一番影響を及ぼす腐敗やかびの発生は、肉眼上認められなかったし、精液斑についても鑑定可能な大きさであったこと、また、前記向山証言及び関係証拠によれば、MCT118部位は、ヒトの第一染色体上の比較的短い部位であるが、この部位の特定の塩基配列を増幅するPCR法プライマーの接合部位に関し、研究者のこれまでの報告によると、ヒト以外の動植物とか微生物では、このプライマーが接合するような塩基配列は見付かっておらず、その意味で、右プライマーは、ヒトのDNAのみを増幅する、ヒト特異的なものであること、科警研でDNA型鑑定を導入するにあたり、いろいろな対象について実験をしたが、サルやイヌなど、ヒト以外のDNAについての増殖は認められなかったこと、精液は、血液等とは異なり、DNAそのものがこれを保護する強固な蛋白質(プロタミン)で保護されており、室温下でのDNAの変性の問題に関しては、時間の経過に対しても比較的安定していること、これまでの実験結果によれば、細菌・微生物が混入しても、DNA型に変化をきたすことはなかったこと、がそれぞれ認められる。

したがって、本件鑑定資料が、採取時に水に浸かり、泥で汚染されていたことや、鑑定着手までにかなりの時間、常温下で保管されていたことが、本件DNA型鑑定の信用性に影響を及ぼすことはないと認められる。

d 鑑定結果の作為性

所論は、本件DNA型鑑定は、その経緯に照らし、本件半袖下着に付着していた精子のDNA型と本件ティッシュペーパーに付着していた精子のDNAの型の合致を目指して行なわれた可能性があり、誤謬率の検討がなされず、かつ、型判定について目隠しテストが実施されなかったこととあいまって、その証拠価値には疑問がある、というのである。

しかしながら、本件半袖下着の精液斑を用いたDNAの型判定が直ちに単独では行われず、被告人が投棄したごみ袋のティッシュペーパーに付着した精液が得られてから、これと一緒にDNA型判定の作業が行われた理由については、先に検討したとおりであり、経時によるDNAの変性の影響を受けなかったことについても、先に見た通りであると認められる。また、型判定の作業が常法に従って行われている以上、目隠しテストが行われなかったことをもって、その証明力を云々するのは相当ではない。関係証拠を検討しても、向山、坂井両名が行った本件DNA型の判定と異同識別の鑑定作業が、両資料のDNA型の合致を意図して作為的に行われたと疑うべき証跡はない。所論は失当である。

e DNA型の出現頻度

所論は、本件のようなDNA型鑑定において、犯人のDNA型と被告人のDNA型が合致すると判定されても、指紋の場合のように決定的な一致ではなく、血液型と同様に、被告人と犯人がDNA型において同一グループに属することを意味するに過ぎず、また、本件鑑定当時明らかにされていた日本人のMCT118型の出現頻度の統計的数値は、その後、母体となるデータが増加するにつれて変化しており、その証明力を過大視することは許されないと主張する。

検討するに、本件で行われたMCT118法によるDNA型鑑定が、指紋のように個人識別の決定的方法たり得ないことは、染色体の特定部位の特定塩基配列の反覆回数の多型性に注目し、マーカーを指標にして読み取られた反覆回数に見合う型番を比較対照するという、その手法の成り立ち自体から明らかである。そして、科警研の発表によれば、本件鑑定当時、123マーカーを用いて判定した一六-二六型の出現頻度は〇・八三パーセントであったが、その後のデータ量の増加に伴い頻度の統計値が増したことも、所論指摘のとおりである。

しかし、原判決は、そのような出現頻度の変動を当然の前提としたうえで、「同一DNA型の出現頻度に関する数値の証明力を具体的事実認定においていかに評価するかについては慎重を期す必要がある。しかしながら、この点を念頭に置くにせよ、血液型だけでなく、三二五通りという著しい多型性を示すMCT118型が一致したという事実が一つの重要な間接事実となることは否定できない」と判断している(なお、その後に研究が進み、三七八通りになったことは、前述した。)のであって、右判示は、原審及び当審で取調べた関係証拠に照らし、相当として首肯できる。原判決が、本件DNA型判定の合致の事実を過大に評価した旨の論難は当たらないというべきである。

関係証拠によれば、MCT118法によるDNA型と血液型との間には、相関関係は存在しないとされているから、MCT118法により、被害者の半袖下着の精液斑の精子のDNA型と被告人のDNA型がいずれも一六-二六型と判定されて合致し、その両者の血液型が、いずれもABO式がB型、ルイス式がLe(a-b+)(分泌型)と判定されて合致した事実は、両者の結び付きを吟味するうえで、重要な積極証拠として評価することができるというべきである。

(2) まとめ

以上、原判決が採用した本件DNA型鑑定の証拠価値をめぐる所論指摘の主要な問題点について検討したが、所論が本件DNA型鑑定について指摘するその余の問題点もあわせ、逐一検討しても、本件DNA型鑑定の証拠評価に関し、原判決に訴訟手続の法令違反、事実誤認の廉はなく、論旨は理由がない。

3  その余の客観証拠

a 本件陰毛鑑定について

所論は、毛髪により、個人識別ができるか疑問であること、本件毛髪鑑定の現場資料が陰毛一本に過ぎないこと、これが犯人の陰毛であるとは断定はできないことなどの問題点を指摘して、その鑑定結果は信用できないというのである。

関係証拠によれば、毛髪の形態比較、成分比較などで、不特定多数の中から個人を識別することは、特段の事情がある場合を除き、困難であると認められる。

しかし、被害者のパンツに付着していた陰毛(以下、本件陰毛という。)が発見された経緯にかんがみれば、これが犯人に由来する可能性は高いといえる。そして、鑑定結果によれば、本件陰毛と被告人の陰毛は、いずれもABO式血液型でB型と判定されたこと、元素分析検査の結果がよく類似していることなどの事実が認められるのであるから、これらの事実は、少なくとも本件陰毛が被告人に由来する可能性と矛盾するものではなく、その余の積極証拠とあいまち、被告人を本件犯行に結び付ける支えの証拠ということができる(原審検甲八九号証、九〇号証)。

所論は、本件陰毛の血液型の鑑定作業が、被告人が被疑者として特定され、被告人の陰毛が得られた後になって、これと一緒に行われたことに不審を唱えるのであるが、現場からは、本件陰毛とともに精液斑の付着した被害者の半袖下着が押収されたことを考えると、捜査当初の段階で、犯人の血液型の判定には右精液斑を用い、陰毛については、これがヒトの陰毛であることの確認(原審検甲八〇号証、八一号証)にとどめ、血液型を検査しなかったことに特段の問題があるとは言えない。論旨は理由がない。

b 福島鑑定人の精神鑑定

所論は、要するに、本件の犯行現場の状況などに照らすと、犯人は、わいせつ行為目的で被害者を誘拐し、殺害したもので、幼女に対して性欲を抱き、殺害した幼女の遺体にさえ欲情を感じるという、極めて倒錯した小児性愛嗜好の者であることは明らかであるが、被告人には、その種の性癖、嗜好は一切なく、借家にアダルトビデオやポルノ雑誌などを所有し、ダッチワイフを持ってはいたが、その中にはいわゆるロリコンものはなく、幼児に対するいたずらなど問題行動が指摘されたこともなく、捜査員が長期間被告人の行動を観察していた間にも、被告人が幼女に声をかけたことはなかったのであって、幼女に特別の性的嗜好は持たないから、本件犯行の動機を欠き、犯人であるはずはない、というのである。

検討するに、被告人が持っていたポルノ類の中には、性的に未成熟な子供を取り扱った、いわゆるロリコンものはなかったこと、長く保育園、幼稚園の送迎用バスの運転手として働きながら、職場においても、近所の人からも、幼児に対する問題行動を特に指摘されたことはなく、また、一年間に及ぶ捜査員の行動確認でも、幼児などに声を掛けるなどの不審な行動は観察されなかったことは、所論指摘のとおりである。

しかし、上智大学文学部心理学科教授で、医師でもある当審証人福島章の供述、同人作成の精神状態鑑定書(原審職権三号証)によれば、被告人は、知的能力が通常よりやや劣り(精神薄弱限界域)、家族には親密な感情を持っていて、依存的であるが、人格の発達が未熟で、衝動に対して抑制力が弱く、他と情緒的な人間関係を形成することは困難であり、社会的に適応する能力に乏しく、劣等意識が強く、また、かつて結婚しても性交がうまくいかなかった経験などのために、性と攻撃性に関し強いコンプレックスを抱いており、成人女性に近付いて気持を通じ合うことができず、成人異性とまともに男女関係を結ぶことができないため、その代用として、被告人にとって扱いが容易な、幼女にその性的関心を向ける、代償性の小児性愛ともいうべき性的倒錯があり、本件はそのような性愛衝動を動機に犯されたというのであり、その余の関係証拠から認められる被告人の知的能力、性向、職場等における対人関係、ダッチワイフなどの性具を借家に置き、週末に使用していた習慣的な行動などとも考え併せると、幼女を殺害してその遺体を愛撫し、自慰行為を行って射精したという本件犯行も、そのような観点から無理なくその意味を理解することができる。したがって、平素は、自慰行為の補助手段として、成人女性のアダルトビデオや写真集、性具などを用いており、また、周囲の者がその屈折した性的倒錯に気付かず、捜査員による長期の行動観察でも幼女への声掛け行動などが見られなかったからといって、被告人について、本件犯行の動機を否定することはできない。

所論は、福島鑑定人の鑑定は、被告人が本件の犯人であることを前提にして、その精神状態を解釈してみせたものに過ぎないと論難するのであるが、同鑑定人は、被告人が原審公判廷で犯行を認めている段階で、犯人であることを前提に精神鑑定を命ぜられたのであり、鑑定を受命後、自ら面接問診した際にも、被告人は犯行を素直に認めていたのであるから、同鑑定人が、本件犯行を被告人の精神状況を知るうえでの重要な問題行動としてとらえ、精神状況の鑑定に当たり、判断の資料としたのは当然である。当審における同鑑定人の証言及び同鑑定人作成の前記鑑定書により認められる本件鑑定の経過、鑑定方法について、特段の問題があるとは認められないし、精神医学者として、犯罪者の精神状況につき学識と鑑定経験の豊富な同鑑定人が、裁判記録や被告人との面接の内容、心理テストの結果等を総合して、被告人を代償性の小児性愛者と判定したのは、被告人が犯人であるとの前提に立つとき、十分納得できる相当な判断であると認めることができる。論旨は理由がない。

第二  自白に関する論旨について〈省略〉

第三  結論

以上、詳細な所論にかんがみ、記録を精査し、当審で取調べた証拠を検討したが、被害者の半袖下着に付着していた犯人の精液を資料にして判定されたABO式血液型、ルイス式血液型の二種の血液型ばかりでなく、MCT118法によるDNAの型が、被告人のそれと合致すること、被告人の性向、知的能力、生活振り、本格的事情聴取の初日に早くも被告人が自白し、捜査官の押し付けや誘導などがなかったことを被告人自身認めながら、犯人であればこそ述べ得るような事柄について、客観状況によく符合する具体的で詳細な供述をしたことなど、本件の関係証拠を総合すれば、被告人の原審の審理後半以降当審にいたる犯行否認の供述にもかかわらず、被告人が被害者花子をわいせつ目的で誘拐して殺害し、遺棄したことを認定するについて、合理的疑いを容れる余地はないというべきである。原判決に理由齟齬、訴訟手続の法令違反、事実誤認はなく、原判決は相当であるとして肯認できる。

よって、刑事訴訟法三九六条により、本件控訴を棄却することとし、当審における未決勾留日数の算入につき平成七年法律第九一号による改正前の刑法二一条を、当審における訴訟費用を負担させないことにつき刑事訴訟法一八一条一項但書をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 高木俊夫 裁判官 岡村稔 裁判官 長谷川憲一)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例